2008年3月11日

「ここは昔お墓でね」という都市伝説

私は父の転勤で、小学校の間に一度転校しているのですが、どの学校でもお決まりの七不思議がありますよね。階段が夜中に増えるとか、理科室の骸骨が踊るとか、誰もいない音楽室でピアノが鳴るとか。低学年の頃通っていた学校も、そして転校した後も、そんなお話しがありました。私は団塊ジュニアと呼ばれる世代で、後にバブル経済と呼ばれる空前の好景気に向かって市街地の開発と、それに伴う児童増加が著しく、新設される学校が多い時期でもありました。通った2校は同じ関東地方ではありましたが、かなり離れた場所であったにも関わらず、いずれも築10年ほどの今思えば新しい学校でした。いずれの場所も「昔はね」なんていうほどの歴史があるような場所でもなかったのですが。。。

そうした七不思議を支えるのが、「ここは昔お墓でね」とか「刑場でね」という七不思議が発生する要因(という名の伝説)。「そんなお墓だけ残して寺が移転するわけないじゃん」と、空気を読まない私は反論したものですが、大都市というものはそうでもないようなのです。

都心掘れば、ご先祖さま 建設現場に人骨相次ぐ

曰く、様々な要因から、墓を放置して寺院が移転してしまうこともあったとか。都市住民は子孫が続かず、遺骨に執着しなかったとか、幕府の方針で移転させられたとか理由はいくつかあるそうで、しかも火事と喧嘩は江戸の華と言われた頃ですから、特に下町は何度も大火に見舞われたし、その後も大震災に戦災もありました。そもそも長年住んでると言ってもせいぜい3代程度というのが東京ですから、「昔はね」なんて言っても、それを検証してくれる人さえいないわけです。もう江戸時代で既に文献の中の世界。しかし、住む人は変わっても、300年も前から大都市であり続けた東京という土地には、人の生活の跡が連綿と刻まれているのでしょう。

「昔はね」を検証するためには、いくつか方法があります。大都市らしく、古くからの地図が残っている東京。しかも隅田川の流れなどはあまり変わっていませんし、古くからある目印(増上寺とか、浅草寺とか)も残っているので、現在の地図と照らし合わせるのもそれほど大変ではありません。

例えばこの資料。明暦頃から明治中ごろの市街地図を場所別・時系列にまとめてくれている資料です。

『江戸-東京市街地図集成』(柏書房, 1988.11-1990.6)

両国・錦糸町を見てみたら、確かにものすごく変わってるんですね。幾つか寺があるものの、明治期には地図上から消えてるものもありました。また、隅田川沿いにやたらと広い区画の「御竹蔵」(幕府の倉庫)という場所があるのですが、明治期には陸軍省の土地に変わっていたそこは、現在の住宅地図とあわせてみると国技館があるところだということが判ります。

他にも、現在の場所との照合をパソコン上でやってくれる『江戸明治東京重ね地図』(DVD-ROM)なんていう資料もあります。

記事によると、バブル期の開発華やかなりし頃は同じように多くの江戸時代の遺跡が見つかっても、工期の遅れや風聞を気にして無視されていた可能性もあるとのこと。まあ気にする人は気にしますからね。一方で、そんなこと言ってたらびっちりと市街化されてる東京で土地なんて残ってないですから、それこそ東京らしいと言えるのかも。ただ、ちょっと古い地図を見れば、そこから何が出てくるかは分かる(少なくとも寺院があったことは分かる)ので、そういうところには住宅よりも、風聞など関係のない学校や役所とかのほうが問題が無さそうって考え方はあったのかもしれません。学校の怪談で「ここには昔お墓があってね」がまことしやかに流れるのも、案外的外れじゃなかったり?

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