日本で発行されてるのに

このところ、何故か時間のかかる所蔵調査だのモロモロにひっかかって、気持ちに余裕のない私です。

先日は今はその名前が全く変わってしまっているA銀行調査課が作成した、一連の調査資料のうち、大正末期に発行された23号が欲しいという調査を受けました。あっという間に出てきたのが中国の天津図書館日本文庫。そしてHarvard University Library。そう、日本で発行された日本語の資料なのに、大事に取ってあるのは海外の図書館。しかも決して仲良しとは言えない隣人の図書館だったりするのです。

とはいえ、日本で発行された日本語の資料を海外に頼むなんて、図書館員のプライドが許しません。調べるうち、A銀行の今の姿であるB銀行が、倉庫に眠っていた過去の資料たちを捨てようとしていたところを、ある大学が拾ったことがわかりました。さっそく問い合わせをしてみたら、その図書館でも23号は持っていない。とにかく1号でも持っている図書館や銀行図書館といった関連機関に問い合わせをしたけれどもやっぱり出てこない。もう海外しかないのか・・・と思ったとき、そうだ古本屋だと思ったのです。

なんと、ありました。すげー。日本の大学図書館どころか、専門図書館もどこも持ってない100年近くも前の資料を古本屋が抱えてましたよ。古本屋は研究者とかが亡くなると、まとまって資料を引き取ったりするので、案外古い学術文献がポンと出ることがあるようです。これもどっかから流れ出たのでしょう。

しかし、所謂灰色文献(機関内や学会内でしか配られなかったり、流通に乗らないような資料)に近い一次資料は、本当に簡単に捨てられてしまうので、発行した人は責任を持って保持するべきですよね。今「これが歴史」とされているものの多くが、文献から構成されたものであることを考えると、ひとつでも文献が無くなってしまったら、もうそこに書かれたある人の考えや調査内容、ひいてはそれが描いていた「歴史」がすべて無かったことになってしまうんですよ。もちろん企業は倒産も統合も買収もするから、なかなかアーカイブを維持するのは難しいでしょう。どこかに預けるとか、寄贈するとかでもいいから、なるべく保持していこうとする努力はして欲しいもの。価値のある浮世絵の多くが海外でしか見られないという例をあげるまでもなく、図書館でこうして調査をしていると、日本での文献(情報)やそれが伝える歴史というものに対する認識の甘さを感じます。

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