ペリリュー島は中心地コロール島の南、スピードボートで約1時間のところにある小さな島です。住民は約700人、島には目立った仕事はないため、多くの成人男性はコロール島などほかの島へ出稼ぎに行くのだそう。
ペリリュー島は、太平洋戦争末期にアメリカ海兵隊第1海兵師団(撤退後に陸軍第81歩兵師団に交代)と大日本帝国軍が泥沼の攻防戦を行った激戦地です。ペリリュー以前の帝国陸軍の戦術は主にバンザイ突撃と呼ばれる効果の薄い単発自爆攻撃でした。しかしペリリュー島ではその方針を180度転換します。戦術的にこの島を失いたくなかった日本は、島の地形を生かした地下壕を張り巡らし、籠城・ゲリラ戦へと持ち込みました。2, 3日で攻略する予定だった米海兵隊は日本兵の執拗なゲリラ攻撃に苦しめられ、結局攻略までに2ヶ月以上、5万人を投入して死者・行方不明者約8000人という多数の犠牲者を出す戦いを強いられることになりました。最終的には日本側の玉砕(日本側の犠牲者は約1万人)で終わった戦争の痕跡は、あちこちに残されています。
米国のナパーム弾攻撃によってはげ山になったペリリュー島ですが、リン鉱石は掘りつくされ、米軍も去り、少人数の島民が戻ってきてから75年。放置されたままの戦争の痕跡はそのままジャングルに埋もれようとしています。
特に最後まで日本が徹底抗戦していた中央の山地にはいまだ地雷や不発弾が埋もれていて、海外の団体が除去作業をしています。米軍がデスバレー(死の谷)と呼んだ場所は危険なため、今回のような一般ツアーでは入ることができません。
入れない山地の奥には、最後まで指揮をした中川大佐が自決した司令部(と言う名の洞窟)があります。終戦後には大佐の遺体を日本へと戻そうとしましたが、ご家族が「先にほかの人を」と言ったため、ペリリュー島に一時的なつもりで埋葬されたそうです。しかし急速にジャングル化が進み、緑に覆いつくされた島でその場所は定かではなくなり、今も見つかっていないのだとか。アマゾンの奥地までGoogle Mapで見ることのできる21世紀の話とは思えません。
ツアーはまず西側の海岸線を南下、洞窟や記念館などを見学しながらオレンジビーチまで行き、南端の慰霊碑を見学してサウスドックでお昼、中央の道なき道を戻ってきて最後まで米軍が苦しめられた中央の高地を回るルートです。ツアーガイドは元自衛官の平野さん。この手の戦跡ガイドはやや左寄りで湿っぽかったり、逆に日本軍に妙に肩入れしたりと極端な説明をする人が多い中、日米双方の戦略や、ペリリュー島の戦争の中での立ち位置なども含めた非常にバランスの取れた良い解説でした。慰霊碑では線香を用意してくれて、全員がお参りをしました(希望者はと言われましたが、全員お参りしてました。自分で線香を持っていた方も)。
司令センタ
ーの廃墟を見てもわかるとおり、放置するということは、いずれ完全に自然に還るということです。昨年ペリリュー島の生き残りの最後の一人が亡くなりました。今回のツアーに参加していた人たちも全員が戦争を知らない世代です。戦争の記憶は徐々に薄れており、戦中派の高齢化によって慰霊などでペリリュー島を訪れる人も少なくなっていたといいます。ところが2015年に当時の天皇皇后両陛下がペリリュー島を訪問したことで、再び来訪者が増えたそうなのです(この日はJALチャーター便が来ている時期ということもあって、総勢20名で満席でした)。現地の各ツアー会社もマリンスポーツが中心のメニューの中に、ペリリュー島訪問ツアーを入れるようになりました。
米軍が多大な犠牲を払って手に入れた島。しかしその苦労に見合うものだったのか、戦史的な意味では疑問視されています。日本にとっては重要な拠点だったペリリュー島ですが、当時から米国では意見が分かれていました。すでに手に入れたマリアナ諸島からフィリピンへの途上にあるペリリュー島には立派な十字の飛行場があることはわかっていました。米海軍は、ここを取らなければフィリピン攻略の際に危険であると主張、一方陸軍は南へ迂回してフィリピンを直接攻略する方針を取りました。結果的に陸軍(マッカーサー)の主張は正しく、フィリピンを先に攻略したのは陸軍でした。ペリリュー島も米軍の勝利に終わったものの、太平洋艦隊最高司令官だったニミッツはのちにこの戦いに後悔の言葉を漏らしたと言われています。しかし日本にとってはおそらくこの戦いは意味のあるものでした。ここで繰り広げたゲリラ戦が米軍を苦しめたことを見て、その後の硫黄島、沖縄の戦いでは同様のゲリラ戦を展開しました。それが本当に良いことだったのかはわかりませんが、当時の戦略としては正しかったのだと思います。
ニミッツの言葉が刻まれた石碑があるのが、ペリリュー神社。
壊滅状態に陥った海兵隊にとってはここは悪夢の島で、最終的に陸軍にバトンタッチして撤退します。陸軍第81歩兵師団の慰霊碑は上陸地であったオレンジビーチに古いものがあるのですが、勝利を手にできなかった海兵隊の慰霊碑は比較的新しいのも皮肉です。ちょうどペリリューに上陸してから75年になる昨年9月に記念式典が開かれたそうですが、サウスドックにはその際に作られた記念碑がありました。
パラオは名前のついたダイビングスポットが無数にあります。その中には、Taisho Maruとか、Japanese ZeroIIとか、戦時中の沈没船・墜落機の名前も含まれます。比較的見やすい位置に2つの零戦があり、2日目に海に出た時に見られました。
ちなみに宿泊したパラオ・パシフィック・リゾートには、戦時中飛行場があったと聞きました(トレイルツアーのお兄さんに)。70年以上経っても、戦争の記憶とともに生きている南洋の島でした。
ペリリューの南端。海の向こうにやはり激戦となったアンガウル島が見える |
ペリリュー島は、太平洋戦争末期にアメリカ海兵隊第1海兵師団(撤退後に陸軍第81歩兵師団に交代)と大日本帝国軍が泥沼の攻防戦を行った激戦地です。ペリリュー以前の帝国陸軍の戦術は主にバンザイ突撃と呼ばれる効果の薄い単発自爆攻撃でした。しかしペリリュー島ではその方針を180度転換します。戦術的にこの島を失いたくなかった日本は、島の地形を生かした地下壕を張り巡らし、籠城・ゲリラ戦へと持ち込みました。2, 3日で攻略する予定だった米海兵隊は日本兵の執拗なゲリラ攻撃に苦しめられ、結局攻略までに2ヶ月以上、5万人を投入して死者・行方不明者約8000人という多数の犠牲者を出す戦いを強いられることになりました。最終的には日本側の玉砕(日本側の犠牲者は約1万人)で終わった戦争の痕跡は、あちこちに残されています。
日本の洞窟陣地。中は迷路のようになっている。 ここは入れるが、米国の攻撃によって塞がれている穴も少なくない。 |
洞窟の中には当時の瓶や靴の残骸、皿などが今も残されている |
米国のナパーム弾攻撃によってはげ山になったペリリュー島ですが、リン鉱石は掘りつくされ、米軍も去り、少人数の島民が戻ってきてから75年。放置されたままの戦争の痕跡はそのままジャングルに埋もれようとしています。
ほとんど原型を留めない墜落した零戦 |
帝国陸軍の戦車 |
日本の通信局跡。右上の窓は大砲によって空いた穴を塞いだもの。壁には無数の弾痕が残る。 今は戦争記念博物館として使用 |
日本軍飛行部隊司令センター跡。コンクリの建物は風化が進み、あちこちに構造を支えるためのつっかえ棒がある |
中央部は米軍の攻撃によって穴が空いたと思われる。 コンクリが剥げて鉄筋がむき出しになった柱でかろうじて支えられ、2階にはもう上がることはできない。 |
階段はまだきれいに残る |
洞窟から今も海を狙っている日本の大砲。上陸には間に合わず、攻撃には使われなかったとか。 |
米軍が上陸につかったLVT |
死の谷へ向かうトレイル。地雷除去が済んだ道の範囲を示すマーカーが埋められている。 |
マーカーの内側を歩くように指示する看板 |
碑文に「昭和64年2月」と書かれている顕彰碑。奥地には立ち入ることは難しいため、比較的入りやすいところに設置されている。 |
中川大佐の終焉の地の鎮魂碑。しかし自決場所は本当は山の反対側だったと言われている |
戦没者慰霊碑。戦没者は全員軍人で、民間人はいない |
天皇皇后両陛下(当時)が訪問した際の休憩所。すごく立派だが現在開放されているわけではない |
南端にある西太平洋戦没者慰霊碑。両陛下が訪れたことで有名になった。 |
ニミッツの言葉が刻まれた石碑があるのが、ペリリュー神社。
ペリリュー神社 |
この島を守るために死んだ全ての日本兵たちがいかに勇敢で愛国心溢れていたかを語り継いでほしいとの言葉。 |
パラオは名前のついたダイビングスポットが無数にあります。その中には、Taisho Maruとか、Japanese ZeroIIとか、戦時中の沈没船・墜落機の名前も含まれます。比較的見やすい位置に2つの零戦があり、2日目に海に出た時に見られました。
わかりにくいけれど、沈んだ零戦。干潮時は危ないので、近くに座礁注意のポールが立っている |
ロックアイランドのビーチ近くに沈む零戦の羽根。尾翼も近くにある |
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