福江島、出島、軍艦島 その2 ーいつも時代の最先端

 その1から続く


最終日は午前中に端島(軍艦島)に行きました。軍艦島に行くにはツアーに乗るしかありません。5社くらいが毎日2便出しています。昨年12月頃まで長崎市が設定した波高設定が厳しすぎて、年間100日くらいしか上陸できないと言われていたところ、ようやく緩和されて、多少ましになったようですが、何しろ湾内ではなく外海にある岩礁ですから、風・波・視界ともに条件にあわないと上陸はおろか、出航さえしないという、これまた「呼ばれないと行けない」離島あるあるです。

というわけで、この日は無事に出航し、そして上陸もできました。軍艦島は、わずか0.65キロ平方メートルの島にピーク時に5300人が住んでいたという炭鉱の島です。日本で最初のRC造アパート、7階建ての小中学校、9階建ての高層アパートの屋上に設置された保育園など、相当特殊な住環境を形成していました。炭鉱の給料が高額だったために、一攫千金を求めた炭鉱夫が全国から集まり、人口はどんどん増えたのだそうです。ピーク時の人口密度は世界一、今もその記録は破られていないとか。1974年に閉山されるまで、端島の炭鉱から採れる良質な石炭はコークスとして製鉄の原料に使われていました。住居費・光熱費がほとんどかからない一方で給料が良い端島の人たちは羽振りがよく、全国のテレビ普及率がまだ10%前後だった1960年頃には、すでに100%の普及率だったとか。

まずは端島の周りをグルっと回って一周。

6階建ての端島小中学校

学校のとなりの大型な建物が65号棟。屋上に保育園があった

比較的小さい3つ並ぶアパートも鉱員住宅。右上に見える三角屋根は端島神社の祠。本殿は残っていない。

高いところに建っている白っぽい建物は3号棟(幹部職員住宅)。

戻ってきて、ドルフィン桟橋から上陸。最初の写真が第1見学広場から。第2見学広場からは管理棟が見えます。

管理事務所と立抗入口。大きく穴の空いた1階部分には立坑から上がってきた鉱員がすすを落とす風呂があったそう。



この下がトロッコ道なんだとか

最後の見学広場から日本最古のRC造アパート30号棟が正面に見えます。

30号棟と31号棟の間の階段。奥に見えるのは25号棟。

日本最古のRC構造アパート30号棟。

島全体が廃墟そのものなのですが、残念ながら度重なる地震・台風によって、30号棟もどんどん形が崩れています。以前は手前の壁も残っていたそうなのですが、今やいつ手前部分が崩れ落ちてもおかしくない状況。一応元のアパートの形がわかる、という状態で見られるのもあと数年かもしれません。

上陸して見られるのは、島の南側の一部のみ。主に炭鉱施設があった島の低い場所です。鉱員たちが生活していた島の北側、西側には入ることができないのが残念。

戻ってきて、中華街の老李でちゃんぽんを食べたあと、出島に行きました。

長崎出身の人にちゃんぽんはどこがおすすめ、って聞いたら「リンガーハット」って言われたんですが、老李のちゃんぽん美味しかったです。出汁をちゃんととってるな、という感じ。

老李のもう一つの名物が水餃子。こちらもおすすめ

おそらく日本で歴史を学んだ人なら誰でも知っているだろう出島ですが、残念ながらいまはもう「島」ではありません。港湾工事で周りは埋め立てられ、海に浮かぶ島ではなくなりました。しかし、1996年ごろから長崎市が本格的な復元事業に着手、第I〜III期の復元事業を経て、2017年に表門橋が完成。半分「出島」らしさを取り戻しました。今後も復元事業は続けられて、最終的に四方に水辺を戻す予定なのだそうです。

出島表門橋

発掘した基礎構造がわかるように床が透明になっている場所があったり、調度品など当時のものを入れて再現するなど、かなり工夫がされている感じ。


もっと隔離島みたいな感じなのかと思っていたのですが、本当に海外への出入口で、交流があったのだなあと思いました。ここから海外の情報を手にいれ、海外の物品を手に入れる。鎖国で内向きだった日本人とは違い、オランダ商人との交流によって、長崎の人は広い世界を見ていたんでしょうね。

昔、長崎出身の先輩がよくひな祭りの時期に桃カステラなるものを地元から取り寄せてくれて、職場で切って食べてました。それを思い出し、文明堂に寄ったら桃カステラがやはり売ってました。なお、桃の形の砂糖菓子でコーティングされているだけで、別に桃が入ってるわけではありません。スーパーにもあったので、やはり桃の節句に桃カステラ食べる習慣なんでしょうか。見た目どおり甘いんですが、思ったほどしつこくないです。


というわけで、長崎の色んな顔を見た3日間でした。


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