古代の世界を歩く−ギリシャー プロローグ

イアの街。火口壁に洞窟型の住居(現在は大半が宿)が階段状に広がる(イア)

民主主義、オリンピック、そしてヨーロッパ。様々な発祥の地であるギリシャに行ってきました。エーゲ海に浮かぶティラ(サントリーニ)島に3泊、アテネに1泊。どっぷり古代の世界につかってきました。街中博物館みたいな感じ。

サントリーニ島は「一度は訪れたい世界の絶景」みたいな本には必ずと言っていいほど掲載されている有名な観光名所で、そのことは私も知っていたのですが、実際に行く前にいろいろ調べていたらこれが面白い。崖の上に雪のように積もった白い美しい街と世界一の夕陽というだけでないのです。

サントリーニ島イアの夕陽。この夕陽を見に世界中の人が訪れる。

サントリーニ島は弓形の島なのですが、その弧の中はカルデラです。この火口は3600年前頃に大噴火し、その際に輪状だった島の一部が倒壊してカルデラが海とつながり、今のような弓状の島が残ったと考えられています(噴火前の島の形状については諸説あり)。この噴火は島に大災害を引き起こし、高度な文明を持っていた街は完全に灰の下に沈みました。これは後にアトランティス大陸伝説として形容されている事象なのではないかとも言う人もいますが、学術界はその説に懐疑的です。

正面はカルデラ。噴火によって大きな穴の空いた海は水深が400m近くあると言われている。
正面は噴火で本島と分離してしまったティラシア

このサントリーニ島はあのScienceが表紙に使うほど実は学術界のホットトピックです。上記の内容くらいなら、Wikipediaでも調べられますが、ここからが面白いのです。この噴火は非常に大規模であったために、世界中にその痕跡を残しています。つまりその痕跡は時代マーカーとして使えるわけで、そうすると重要になってくるのは「いつ噴火が起こったのか?」ということです。この疑問に最初に答えを出したのは考古学でした。文献や考古学的遺物、遺跡を相対的に調べることによって、この噴火は紀元前1500年代半ばに起こったと考えられていました。この年代は、ちょうどミノア文明と言われるクレタ島を中心とするエーゲ海文明が衰退を始める頃です。クノッソスを始めとするクレタ島の要塞は、火災や地震、あるいは津波などの災害によって崩壊し、それが文明衰退につながったと考えられていますが、その原因がこの大噴火に求められました。ところがこれに待ったをかけたのが、放射性炭素による年代測定です。サントリーニ島の火山灰層の下から有機物が見つかり、1970年代頃からこれらを使った自然科学的手法による噴火年代測定が行われるようになりました。その結果、噴火は当初考えられていたよりも100年ほど早いとされました(1)。さすがに100年前の噴火に文明衰退の理由を求めるのは無理があります。また、ミノア噴火がクレタ島に津波被害を引き起こしたことも疑問視されています。科学的シミュレーションでは、遠いクレタ島では津波はそこまで深刻ではなかったと考えられるからです(2)。現在の有力説では、紀元前1650-1600年頃に噴火が起こったことになっているのですが、考古学者もハードサイエンスによる横やりに抵抗します。当時エーゲ海文明はかなりの隆盛を誇り、ミノア文明としてその痕跡をエーゲ海地域全体に残します。ギリシャ本土はもちろん、近隣諸国であるエジプトやトルコなどと交易がありましたが、それらの遺物の比較から、噴火の年代が100年も遡ると今までの定説が根底から覆されることになるのです。むしろ彼らは科学的な手法を問題視し、試料が汚染されているのではと攻撃しました。放射性元素による科学的測定を信用するのであれば、関連するエジプト文明の年表まで書き換えなければなりません(1)(3)。しかし21世紀に入ってさらに試料がみつかり、多くの研究が重ねられた結果、地球科学的な観点からはミノア噴火の年代はほぼ紀元前1630年-1600年くらいの間というコンセンサスが得られています(4)。そのころの中国の文献にも噴火の影響と思われる記述があるという研究報告もあり(5)、考古学側も決して紀元前1500年代の噴火に固執しているわけではありませんが、エーゲ海をとりまく広域の歴史年表の見直しも含めて考古学VS地球科学の場外乱闘(笑)は今も続いています(1)。

イアのギリシャ正教の教会。島の教会は東方教会の正統的なビザンチン様式が取り入れられているものが多い。この島がラテン民族に支配されたことで、カソリックへの改宗を迫られたことに原因を求める説もある(6)
また、サントリーニ島の人の歴史にも謎は多いです。近年、分厚い火山灰層の下から高度な文明を持っていたと考えられる遺跡が発見されました。2階あるいは3階建ての高層住宅に、多くの人が住んでいたと思われる街の遺跡です。アクロティリ遺跡と呼ばれるその遺跡は、今も発掘調査が続いており、次々と新しい発見がなされています。ところがこの遺跡、ギリシアのポンペイと言われるように、火口が吹き飛び、島の形が変わるような噴火によって廃墟になったと考えられるのに、なんと人の遺体が一体も発見されていません。彼らは噴火を予知し(察知し)、クリティカルな噴火が起こる前に逃げたのではないかと考えられています。しかしその説を聞いてどう思いますか?頻繁に大地震や台風、噴火などの災害に見舞われる島国に住んでいる人間からすると信じられません。人は正常性バイアスがある生き物です。例え地震が増えたとしても、ここまで高度な文明があり、立派な家屋を構えた人々が、全ての日常を捨てて(そして島を捨てて)、よそへ行ったりするのでしょうか。そもそも噴火や地震は21世紀の今でも予知が全くできない代物です。3000年以上前の人々が、故郷を捨てて逃げようとするほど「噴火が起こりそうだ」なんて切羽詰まった状況になるなんてにわかに信じられないのです。

2階建て、3階建ての建物もあった模様、この崩れた階段は噴火による地震によるものと言われている
(アクロティリ遺跡)

というわけで、古代の謎に溢れた島、サントリーニ島の旅行記を4回くらいに分けて書こうかと思います。

1. サントリーニ島へのアクセスと島内交通(私の場合)
2. サントリーニ島のカルデラを歩く
3. サントリーニ島の街と動物
4. ギリシャの食べ物

参考文献
(1) Klontza-Jaklová, Věra. What’s wrong? : Hard science and humanities – tackling the question of the absolute chronology of the Santorini eruption. Filozoficka Faculta, Masarykova Univerzita, 2016. 87 p.
(2) 青木克彦, 今村文彦, 首藤伸夫. 紀元前1400年サントリーニ島火山性津波の再現計算. 海岸工学論文集. 1997, vol. 44, p. 326–330.
(3) Batler, Michael. New Carbon Dates Support Revised History of Ancient Mediterranean. Science. 2006, vol. 312, no. 5773, p. 508–509.
(4) Friedrich, Walter L., Kromer, Bernd, Friedrich, Michael, Heinemeier, Jan, Pfeiffer, Tom, Talamo, Sahra. Santorini eruption radiocarbon dated to 1627-1600 B.C. Science. 2006, vol. 312, no. 5773, p. 548.
(5) Friedrich, Walter L., 海のなかの炎 : サントリーニ火山の自然史とアトランティス伝説 . 郭資敏訳. 古今書院, 2002, p.81.
(6) 畑聡一. エーゲ海・キクラデスの光と影 : ミコノス・サントリーニの住まいと暮らし. 東京, 建築資料研究社, 247p., ISBN9784874602430.

コメント